リトミカ

北海道の大学生達が、カルチャーの発信地を目指すブログです。

【初投稿】リトミカとはどんなブログ?【自己紹介の置き場】

このブログについて

 

 リトミカとは…

  • 北海道をカルチャーの発信地へ
  • カルチャーの新しい「見方」を提供

 …を目指している大学生たちによるブログです。多岐多様な分野へ、多岐多様なアプローチをめざしていますのでよろしくお願いします!

 初投稿となる今回は、自己紹介の置き場にいたしますので、今後ともよろしくお願いします(随時、更新があるかもしれません)。

 

 

自己紹介

 ①catmi

 ・当ブログの編集長的なことをやっております。

 ・いよいよアラサーの年齢。

 ・映画、YouTube、vimeo、そのほかネット文化、映像文化について書いていく予定です!

 ・より自由な個人ブログ展開中です↓↓↓

caaatteey-0815.hatenablog.com

 

  ②sh

 学生です。好きな食べ物はパン。映画や小説について書くとおもいます。

 

 

    ➂くらげ

 学生です!

 趣味は、読書、ミュージカル鑑賞。

 今後はキリスト教文学や伝奇小説を中心に気になった小説、漫画などについて色々と考えていきたいと思います。

 

 

 ④T+k a.k.a.優しきテロリスト

 

 HIPHOP生まれ、漱石育ち、文学理論はだいたい友達。

 趣味は読書です。なんでも読みます。1日1冊読みます。

 読書メーターhttps://bookmeter.com/users/504047

 日記→https://t-kengo.tumblr.com

 Twitterhttps://twitter.com/gohan_tabetain

 

ご感想、ご意見などこちらから

 ritmicaritomika@gmail.com

 

 

ネオテニーのかなしみ/大前粟生『私と鰐と妹の部屋』

大前粟生が気になっている。西部劇などでよく風に流されて転がっているアレ(=いわゆる「タンブルウィード」)が主人公という異様な設定の表題作をはじめ一筋縄ではいかない奇想に満ちた怪作が満載だった昨年刊行の短編集『回転草』に負けずおとらず先日刊行された掌編集『私と鰐と妹の部屋』もとにかく全編へんてこでいわく言いがたいおもしろさがあった。どのようにへんてこなのかというのはたとえば最初に掲げられた作品「ビーム」の冒頭をみればたぶんすぐわかる。

 

 妹の右目からビームが出て止まらない。流星群の日に、ふたりで「かっこよくなりたい」と流れ星にお願いをしたからだ。救急車を呼んだけれど、「手立てはない」と医者はいう。仕方がないので、私は妹の右目を手で押さえつづけている。いったいどういうわけか、私の手だけが妹のビームを抑えることができる。私たちは離れることができない。病院から帰ってしばらくは歩行や生活の練習をする。(「ビーム」) 

 

「目からビーム」という異常な事態が説明もなく一行目にポンと据えられるものの「ビーム」自体が特にどうこう掘り下げられるわけではない(「目からビーム」だと個人的には『X-MEN』シリーズのサイクロップスとか最近だと『ミッドナイト・スペシャル』とか)。発生原因も「ふたりで「かっこよくなりたい」と流れ星にお願いをしたから」で理屈としてはほぼ狂っており「かっこいい」と「ビーム」の短絡に幼児的とでもいうべきおかしみがにじんでいる。同時におそらくはまだ幼いのだろう妹と姉(この段階ではまだ兄の可能性もあるが)の「お願い」のささやかさとかわいらしさも「ビーム」という異常な語との奇妙な対比のうちに感じられる。それがなにか重い病気のようにあつかわれ最終的にリハビリの話まで出てくると結局感情はかなしさやせつなさにずれこんでいく。めくるめくスピード感とグロテスクなまでの展開のかろやかさ(あるいは乱暴さ)。冒頭の不条理をさらりと受容して姉妹の話に終始するあたりの雰囲気にはベタだがとうぜんカフカ『変身』などの作品名もおもいうかぶ。

 

『私と鰐と妹の部屋』は短いものなら単行本1ページ、長くても3、4ページくらいの掌編を53篇収録している。薔薇園でワニに遭遇する表題作をはじめ、足裏からものを溶かす汗が出る子ども(「ものを溶かす汗」)、小学生のとき呼びだしたこっくりさんとの同居生活(「こっくりさん」)、冬の植物を人肌であたためる謎の夜勤のバイト(「夜中」)、シーツをかぶっておばけのふりをする妹(「おばけの練習」)、なぜか一緒に暮らしているジョン・トラボルタ(「ジョン・トラボルタ」)、信じてもらえないが仕事で忍者をやっている私(「仕事をやめる」)、雷に十七回撃たれた姉(「雷は庭に落ちた」)……などなどいずれもどこかしらへんな物語ばかりがならぶ。読後感は例外なく「かなしい」。それを後押しするのが全体のトーンを規定する「やさしさ」「やわらかさ」になる。

 

「やさしさ」あるいは「やわらかさ」。ひらがなの多い文体についてはもちろん、小学生など子どもが主人公の作品が多いことからも全体に幼児的な印象をつよく受ける。さきの「(目から)ビーム」しかり奇想そのものもなんだかおさなげだ。幼稚園児のらくがきみたいに抽象的でふわふわした(それでいてどこか不気味な)着想がずるりと日常に陥入することで世界像がわずかにずれ、修復不可能なほどにずれたまま進行していくことでやがて作品がなんともいえない「おかしみ」や「かなしみ」におおわれていく。その様相じたいがグロテスクだともいえる。ゴーゴリ『鼻』のような意味でのグロテスクさとでもいうか。

 

なんとなくウーパールーパーの様態を連想したりもする。点と線で描かれたようなどこか間の抜けたあの顔もそうだが(表題作にでてくるワニだとかも個人的にはみんな最初そのような「点と線で描いたような」イメージで脳裡にあらわれた――ところが大方はやがて腐乱したり肉の印象をつよく刻印しはじめてしまう。『回転草』収録「彼女をバスタブにいれて燃やす」のキリンなどもそう。とりわけ「悪臭」の描写が多いのが要点かもしれない)よく知られた話だが一般に知られているウーパールーパーの姿はじつは幼体のものでかれらは延命のためにあえて幼体のまま一生を過ごす生存戦略をとっているのだという(ググればすぐでてくるが成体はもっとごつくて気持ち悪い)。いわゆる「ネオテニー」。本作に収録された作品はいずれもこのネオテニー的な=「はからずも幼生のまま育ってしまった」とでもいうような「かなしみ」をたたえているようにおもう。

 

幼体はひどくデリケートで「やわらかい」。わずかな外的刺激でもあっさり変形してもとにもどらないような「やわらかさ」こそがひどく「かなしい」のであって、たとえば収録作「平凡」の冒頭はこう――関節でも違えてしまったのか、肩車をした拍子に息子の股間が私の首にくっついてしまう。「ビーム」もそうだったが身体組成があっさり組み変わったり「合体」(=世のだいたいの子どもは好きな語)してしまうのは未成熟な「やわらかさ」の結果ともとれる。物語はしかしここでも事態の理解に終始するのではなく以下のようにつづく。はじめの内は息子とずっといっしょにいられることがうれしく、職場の同僚や取引先は息子の愛嬌のよさに微笑んでくれたが、それから四十年が経った。急速な時間飛躍による焦点のずれがめまいを起こす。ラディカルすぎる変化を抱えたままでも世界はあっさり進行してしまいそのこと自体がやがて「かなしみ」を持つようになる。あるいは母親が突然パンプアップ=「ムキムキ」になり動けなくなる話「ムキムキ」における奇想はあたかも「うっかり筆がすべってしまった」かのようなあっけなさ=乱暴さで作動する。あっけないからこそおかしくてかなしい。 

 

もうお菓子買ってあげないからね、とママはムキになって、もう一度ムキになって、するとムキムキになった。(「ムキムキ」) 

 

「やわらかい」筆致はべつの部分でも幼年期的な可変性に作用している。たとえば「サランラップ」はこのようにはじまる。サランラップはひと箱50メートルもある。それをぜんぶ伸ばして弟が部屋中に張り巡らせていた。なんだよ、これ、と俺はいった。蜘蛛の巣みたいじゃないか。まず兄弟の話であることがわかる。全体のトーンからいってぼんやり小学生くらいの兄弟を想像する。ところが読み進めていくとほどなく以下のような表現につきあたる。弟は働いていない。俺がお金を稼いでいる。マクドナルドでのバイト代でやりくりするのはかなりきつい。俺と弟の年金は弟の薬代に消えていく年金生活者の兄弟だったのかと虚をつかれることになる。文章から勝手に子どもだとおもっていた二人が急速に老人に姿を変える。「変身」。あるいは「子供のまま老人になっている」状態というか。年齢問わずみんながみんな少年の心のままでいるみたいでもある。いずれにせよこのやわらかくてふわふわした書きぶりが独特の宙吊り感・未決定感に大きく貢献している。兄弟ふたりできつきつの老後を送っているという生活上の「かなしみ」もまた一挙にあふれでてくる。

 

大前の作品には男女のみならず同性カップルもごくごく自然なかたちであらわれるし読むかぎり性別の完全には判別しきれない人物も何人も登場する(多くかれらは端的に「私」という可変的な存在としてあらわれる)が「性別以前」という意味ではこれもまた未成熟=未分化の形態として了解できるかもしれない。いうまでもないが小説はたとえば見た目や性別のことをかならずしも書かなくても成立する(むろん作品はそちらには流れないがここに政治的意義を読みとることも可能)。それらを捨象していきひたすら清貧に「みじかい」かたちで成就した物語の姿が掌編というかたちなのだとすればやはり「成熟」が「未成熟」により成立しているという逆説が了解されうる。まだ幼いまま「うっかり」完成してしまったとでもいうべきネオテニーとしての掌編たち。もはや「かなしい」のは内容のみならず各作品のもつ「ささやかな」フォルムそのものについてもそうだ。

 

多種多様な作品群をジャンルでくくるのはおよそ不可能だろう(これもまた「未分化」だけど)。けれどあえてジャンル風に名前をつけるとすれば、ちょうど最果タヒが帯文を書いていたこともあってか、「死んでしまう系」とでも呼ぶのがここではふさわしい気がする。希死に近似するほど強烈な「いま、ここ」への意志と刹那的な少女性をたたえていた『死んでしまう系のぼくらに』という詩集が最果の著作にはあったが大前の作品にもどこかあれに似た感情がただよっている。「推し」だとかyoutuberだとか今風の語彙をおしげもなく作品へ取りこむ当世感覚についてもそうだけれど、「死にたい」でもなく「死ぬ」でもなく、ただそのように(やがては)「死んでしまう」ことへの哀惜、その(やがては)が今この瞬間のものとして知覚されるようなほとんど倒錯にちかい切実、「死んでしまう」感覚へのまなざしがそのまま「生きていること」への目配せでもあるような自覚、などにどことなく類似の資質を感じてしまう。実際最短の掌編はほとんど詩のようにも読めるが最小単位まで落ちこんだ小説と詩とを分別しているのはたとえば大前のもつちいさくてやわらかくてかなしい「物語」そのものへの愛着というかいつくしみのようなものなのではないかという気がする。

 

 あたらしい名前がいる。あと一分で日が変わる。あした私は二十歳になる。こんなに生きてきた。世の中のことがだいたいわかってきた。狂ってる。病んでいる。あしたになったら、名前をあたらしくする。二十歳になったら、私のことを悪魔と呼ぶ。[…]私は悪魔。名前のとおりひどいことをする。みんなの話に笑ってやらない。イライラする、と私はいう。(「二十歳になったら悪魔になる」)  

 

わたしが悪魔になったのはみんなが悪い。あかいろやあおいろの信号しか見ていない。夜。昼。ともだちができなかった。それだけが原因だった。ゆめのなかの幻覚に、つれさられて殺されたいと、願うくらいにさみしくて、かなしさだけが足りなかった。(最果タヒ「きえて」一部) 

 

小説と詩のあいだに横たわる差はたとえばきっと「かなしさ」と「さみしさ」のちがいみたいになる。宝石のようにきらめく「かなしさ」がたくさんつまった作品集。

  

 

私と鰐と妹の部屋

私と鰐と妹の部屋

 

 

 

回転草

回転草

 

 

 

 

死んでしまう系のぼくらに

死んでしまう系のぼくらに

 

 

 

(記事:sh)

 

なぜ人は「ゴジラ」を語りたがるのか【初代『ゴジラ』のジャンル論】

 『ゴジラ』(1954)は、一連の「ゴジラ」シリーズの初代に当たる作品。モノクロ、97分。本多猪四郎監督。本稿の目次は以下の通り。

 

 

 

1「ゴジラ」はどう「読まれたか」?

 初代「ゴジラ」という怪獣あるいは『ゴジラ』は、評論や研究の中でどのように「読まれてきたのか」。その一部を紹介していく。

 

森下達によるゴジラ評の紹介

 森下達は、「〈被爆国民〉の「悲劇」と「怨嗟」-『ゴジラ』と「原爆映画」をめぐって」(『複数の「ヒロシマ」 記憶の戦後史とメディアの力学』2012年、青弓社に所収)において、『ゴジラ』の評価をまとめている。時代を背景に「ゴジラ」あるいは『ゴジラ』の「読まれ方」がどう変化したのかについて指摘されているのだ。詳細はこの論文を参考にしていただきたいが、その一部についてここで触れておきたい。

 

①1950年代 双葉十三郎ら=ドラマ部分への批判、テーマ性についてはほとんど無視

 ゴジラ以外の人間がおりなすドラマパートがつまらないという批判。ゴジラが「核」によって生まれたことなどテーマ性については触れられていないことが多い。

 

②1980年代 「ヒロシマ」や「戦争」というイメージに結びつけられた解釈と評価

大江健三郎による批判:「放射能を大量にあびることによって怪獣となってしまった生命体」という発想自体を批判。

・肯定的な評価:ゴジラという「怪獣」自体への意味付けをしつつ、それを映画そのものへの評価とする。評論家・川本三郎は、ゴジラを「戦没戦士たちの象徴ではないか」とし、それを通して映画に評価を与えている

・上野昂志の評価:ゴジラを原爆を落とした側の「怨嗟」の凝集体とみなし、形象としてのゴジラそれ自体に積極的に評価を与えている。

 

 

 

原爆/戦争を暗示する『ゴジラ』という読み方

 初代『ゴジラ』や「ゴジラ」には、80年代の「読み方」を呼び寄せるような原爆/戦争に結び付けられがちな表現があった。そのことについてもまとめておきたい。論文に確認できた部分に関しては、論文の題名も付記しておく。

 

① ゴジラが夜にしか攻撃に来ないことが空襲のイメージを示していること

加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』(2010年、岩波書店

 田畑雅英「なぜゴジラは都市を破壊するのか」.大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター(編)『都市文化研究5号』(2005年、16-29)

 佐藤健志ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(1992年、文芸春秋

 

② ゴジラの東京襲撃コースが東京大空襲におけるB29飛行コースと類似していること

 ゴジラは南からきて、一回目の襲撃で品川、二回目の襲撃では芝浦~新橋~銀座(皇居を迂回)~国会議事堂~上野~浅草~隅田川と進撃している。

 →佐藤(1992)に言及がある。

 

③ ゴジラに襲撃された街が広島・長崎/東京の被災後を想起させること

 →公開は54年。太平洋戦争が終わってから10年も経っておらず、観客の記憶に呼びかける側面があった。

 

④ ゴジラ襲撃後の病院が野戦病院のようであり、同時に放射線検査が行われていること

  →田畑(2005)に言及がある。

 

⑤ ゴジラに追い詰められ泣き叫ぶ親子の表象「もうすぐお父さまのところにいけるのよ」

   →父親の不在は戦争における召集を想起させる。

 

 

 ①から⑤いずれも戦争や原爆が暗示されているだけであり、直接明白にこのことが語られたり、描写されたりしているわけではない(水爆実験によってゴジラが目覚めたというのが唯一『ゴジラ』の中で原爆の存在を明示した例外である)。加えて、挙げたものの中にはほかの解釈も可能なものもある(③などは、自然災害の被災風景ともいえる)。暗示にとどめたことは、『ゴジラ』が特撮ものであったことと関係があるのだろうか。

 

 

 

 

2『ゴジラ』と特撮作品

 特撮作品では戦争・原爆について表現していたのか。今回は、初代『ゴジラ特技監督円谷英二(特撮の神様とも称される)が監修を担当した特撮作品からその代表例の3つを示したい。

 

怪奇大作戦』第15話「24年目の復讐」(1968)

・戦争を終わったことを知らない兵士がアメリカ兵をおそっている。(日本兵が発見されたのは、1972年なので、予言となっているとして有名

・父親が戦死した女性が登場する。

主人公の「牧史郎」の戦争体験の回想シーン;直接的な表象

  牧の姉(防空頭巾をかぶった女の子)が映る

  →ブランコに乗る彼女に戦闘機が接近(ロングショット)

   →機銃掃射を受ける姉

・ラストシーンのセリフ:「戦争の影響から逃れることのできない人々はまだまだ大勢いるんだ」+真珠湾攻撃についての言及。

 

 

 

ウルトラマン』第4話「大爆発5秒前」(1966)

・原爆が日本海溝付近で爆発した様子が表現される。

・原爆が日本海溝付近で爆発し、そのことで本能などを変えられてしまった海底原人「ラゴン」登場。

 →ウルトラ警備隊ムラマツ隊長のセリフで原爆による「ラゴン」への影響について端的に明言されている。

「ラゴンは、放射能のため音楽好きの本能も基礎本能も狂ってしまったんだ。」

 →「ゴジラ」と異なり、原爆で狂暴化したことが明白

原子爆弾が登場し、実際に爆発直前までいってしまう。

 

 

 

怪奇大作戦』第5話「死神の子守唄」(1968)

・体内被曝者(母親が広島で被爆)で原爆症に侵された歌手「高木京子」が登場。→怪獣などに仮託せず、原爆について描写

原爆症から彼女を救うべく人体実験の為に殺人を犯していく彼女の兄のセリフ。

 

「科学者が何をした。原爆を作っただけじゃないか。」

「俺がやらなかったら一体誰が京子を治してくれた?日本の国が、か?それとも原爆をおとしたアメリカか?ふん、誰もやってくれやしない。」 

 

→ストレートに原爆についての科学者たちの罪や米国や日本の無責任さについて言及しているメッセージ性のあるセリフ。

 

 

まとめ

 このように、『ウルトラマン』『怪奇大作戦』では、戦争や原爆が視覚的にも内容的にも明示的に示されている。このため、特撮ものであったから『ゴジラ』が原爆や戦争を暗示にとどめたのではなかったといえる。また、明確なメッセージ性を持った『怪奇大作戦』などは戦争や原爆と作品を強く結びつけており、作品に多義性を生み出す「余剰」をつぶしたともいえる

 

・『ゴジラ』では戦争や原爆を明示することをせず、暗示することにとどめた。これは、特撮的な表現というわけではなかった。)

 →『ゴジラ』を原爆や戦争をテーマにしただけの映画にとどめなかった。

 →このような姿勢が「ゴジラ」を様々なものと結び付けられる一因となったといえる。

 

 

 

3『ゴジラ』とパニック映画

  次に、『ゴジラ』が生物などによる市民の混乱を描いたいわゆる「パニック映画」としての側面を持っていることに注目したい。「パニック映画」に不可欠なのは、何者かの襲撃と登場人物等の混乱シーンだ。『ゴジラ』では、映画後半でゴジラが東京を襲い、人々が逃げ惑うシーンが代表例として当てはまるだろう。ここではこのようなシーンに注目・分析していきたい。

 

襲撃と混乱のシーンの構成

 襲撃と混乱のシーンが映画の中でどう散りばめられているのか。「パニック映画」の側面を持つ作品と比較していきたい。比較する映画は、年代等に配慮し以下の通りとした。

 

〈表:ゴジラと他のパニック映画における襲撃・混乱シーンの分布と割合〉

f:id:RITMICA:20190429191956p:plain

  『ゴジラ』の襲撃・混乱シーンは、全体に対して割合が30%ほどである、映画の中盤すぎに長い襲撃・混乱シーンがあることから割と標準的な構成であることがわかる。ただ、『ゴジラ』では、後半の25分(正式には残り27分)にこのようなシーンがないことがほかの映画と比べての特徴的である

 

ラスト25分の特殊性

 構造的な分析をすると、『ゴジラ』にはのこり25分で、襲撃・混乱シーンが消えているといった点に特徴がある。上に挙げた映画と残り三十分の違いを考えたい。

 

①『鳥』、『キングコング』、『ジョーズ』、『ゴジラの逆襲』の残り25分のシーン

 『鳥』、『キングコング』、『ジョーズ』では、その映画の魅力を端的に示しているといえるポスターで取り上げられているようなその映画の象徴的な襲撃・混乱シーンが含まれている

 例えば、『キングコング』。ポスターでは、エンパイア・ステート・ビルの頂上で飛行機と戦う「キングコング」の姿が描かれているが、ほぼ同じ構図のシーンが95分付近に存在している。

 あるいは、『鳥』。主人公が「鳥」に襲われるシーンが描かれるが、こちらも105分付近にほぼ同構図のシーンが存在する。

 

 また、『キングコング』『ジョーズ』『ゴジラの逆襲』では、これまで襲撃されるだけだった人間と「キングコング」「ジョーズ」「ゴジラ」の対決シーンが描かれ、「キングコング」や「ジョーズ」は惨殺される(『ゴジラの逆襲』の「ゴジラ」は氷の中に埋められる)。代表例は『ジョーズ』だ。「ジョーズ」は最後まで主人公と対決しその結果派手に爆死する。

 

 

②『ゴジラ』の残り25分

 『ゴジラ』では、上記のような象徴的シーンや対決のシーンはない。怪獣「ゴジラ」の表象さえ少ない。また、「ゴジラ」退治も描かれているが、一方的に「ゴジラ」を襲撃する形になっているため、「ゴジラ」は人間たちに対して反撃ができず対決シーンにはなっていない。反撃の余地を与えられなかった「ゴジラ」は恐怖の対象ではなく、憐みの対象にすらなりそうな表象である。襲撃シーンや対決シーンがないことで、最後の25分において、「ゴジラ」は人を襲ってくる恐怖の対象として表象されなかったのだ

 

 

まとめ

ゴジラ』のシーン構造はほかの生物をあつかった「パニック映画」と大差のないながら、ラストにおいてほかの「パニック映画」と一線を画していた。

→『ゴジラ』は、襲撃シーンではじまり襲撃シーンで終わるような単純な映画ではなかった。また、「ゴジラ」はラストシーンまで一貫して襲ってくる恐怖の対象として表象されたわけではない。

 →このような構造から「ゴジラ」をただの恐怖の対象として強く結びつけることがある程度避けられていたといえるだろう。

 →このようなことから「ゴジラ」を様々なものと結び付けられる一因となったといえる。

 

 

・・・

 

 『ゴジラ』は特撮作品としても、パニック映画としてもその「枠」にあてはまらない部分があった。この当てはまらなさは、見ているものに「違和感」を感じさせ、その「違和感」こそが映画『ゴジラ』や怪獣「ゴジラ」について語らせたがる側面をもたらしたのではないか。

 

(執筆:catimi)