リトミカ

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ネオテニーのかなしみ/大前粟生『私と鰐と妹の部屋』

大前粟生が気になっている。西部劇などでよく風に流されて転がっているアレ(=いわゆる「タンブルウィード」)が主人公という異様な設定の表題作をはじめ一筋縄ではいかない奇想に満ちた怪作が満載だった昨年刊行の短編集『回転草』に負けずおとらず先日刊行された掌編集『私と鰐と妹の部屋』もとにかく全編へんてこでいわく言いがたいおもしろさがあった。どのようにへんてこなのかというのはたとえば最初に掲げられた作品「ビーム」の冒頭をみればたぶんすぐわかる。

 

 妹の右目からビームが出て止まらない。流星群の日に、ふたりで「かっこよくなりたい」と流れ星にお願いをしたからだ。救急車を呼んだけれど、「手立てはない」と医者はいう。仕方がないので、私は妹の右目を手で押さえつづけている。いったいどういうわけか、私の手だけが妹のビームを抑えることができる。私たちは離れることができない。病院から帰ってしばらくは歩行や生活の練習をする。(「ビーム」) 

 

「目からビーム」という異常な事態が説明もなく一行目にポンと据えられるものの「ビーム」自体が特にどうこう掘り下げられるわけではない(「目からビーム」だと個人的には『X-MEN』シリーズのサイクロップスとか最近だと『ミッドナイト・スペシャル』とか)。発生原因も「ふたりで「かっこよくなりたい」と流れ星にお願いをしたから」で理屈としてはほぼ狂っており「かっこいい」と「ビーム」の短絡に幼児的とでもいうべきおかしみがにじんでいる。同時におそらくはまだ幼いのだろう妹と姉(この段階ではまだ兄の可能性もあるが)の「お願い」のささやかさとかわいらしさも「ビーム」という異常な語との奇妙な対比のうちに感じられる。それがなにか重い病気のようにあつかわれ最終的にリハビリの話まで出てくると結局感情はかなしさやせつなさにずれこんでいく。めくるめくスピード感とグロテスクなまでの展開のかろやかさ(あるいは乱暴さ)。冒頭の不条理をさらりと受容して姉妹の話に終始するあたりの雰囲気にはベタだがとうぜんカフカ『変身』などの作品名もおもいうかぶ。

 

『私と鰐と妹の部屋』は短いものなら単行本1ページ、長くても3、4ページくらいの掌編を53篇収録している。薔薇園でワニに遭遇する表題作をはじめ、足裏からものを溶かす汗が出る子ども(「ものを溶かす汗」)、小学生のとき呼びだしたこっくりさんとの同居生活(「こっくりさん」)、冬の植物を人肌であたためる謎の夜勤のバイト(「夜中」)、シーツをかぶっておばけのふりをする妹(「おばけの練習」)、なぜか一緒に暮らしているジョン・トラボルタ(「ジョン・トラボルタ」)、信じてもらえないが仕事で忍者をやっている私(「仕事をやめる」)、雷に十七回撃たれた姉(「雷は庭に落ちた」)……などなどいずれもどこかしらへんな物語ばかりがならぶ。読後感は例外なく「かなしい」。それを後押しするのが全体のトーンを規定する「やさしさ」「やわらかさ」になる。

 

「やさしさ」あるいは「やわらかさ」。ひらがなの多い文体についてはもちろん、小学生など子どもが主人公の作品が多いことからも全体に幼児的な印象をつよく受ける。さきの「(目から)ビーム」しかり奇想そのものもなんだかおさなげだ。幼稚園児のらくがきみたいに抽象的でふわふわした(それでいてどこか不気味な)着想がずるりと日常に陥入することで世界像がわずかにずれ、修復不可能なほどにずれたまま進行していくことでやがて作品がなんともいえない「おかしみ」や「かなしみ」におおわれていく。その様相じたいがグロテスクだともいえる。ゴーゴリ『鼻』のような意味でのグロテスクさとでもいうか。

 

なんとなくウーパールーパーの様態を連想したりもする。点と線で描かれたようなどこか間の抜けたあの顔もそうだが(表題作にでてくるワニだとかも個人的にはみんな最初そのような「点と線で描いたような」イメージで脳裡にあらわれた――ところが大方はやがて腐乱したり肉の印象をつよく刻印しはじめてしまう。『回転草』収録「彼女をバスタブにいれて燃やす」のキリンなどもそう。とりわけ「悪臭」の描写が多いのが要点かもしれない)よく知られた話だが一般に知られているウーパールーパーの姿はじつは幼体のものでかれらは延命のためにあえて幼体のまま一生を過ごす生存戦略をとっているのだという(ググればすぐでてくるが成体はもっとごつくて気持ち悪い)。いわゆる「ネオテニー」。本作に収録された作品はいずれもこのネオテニー的な=「はからずも幼生のまま育ってしまった」とでもいうような「かなしみ」をたたえているようにおもう。

 

幼体はひどくデリケートで「やわらかい」。わずかな外的刺激でもあっさり変形してもとにもどらないような「やわらかさ」こそがひどく「かなしい」のであって、たとえば収録作「平凡」の冒頭はこう――関節でも違えてしまったのか、肩車をした拍子に息子の股間が私の首にくっついてしまう。「ビーム」もそうだったが身体組成があっさり組み変わったり「合体」(=世のだいたいの子どもは好きな語)してしまうのは未成熟な「やわらかさ」の結果ともとれる。物語はしかしここでも事態の理解に終始するのではなく以下のようにつづく。はじめの内は息子とずっといっしょにいられることがうれしく、職場の同僚や取引先は息子の愛嬌のよさに微笑んでくれたが、それから四十年が経った。急速な時間飛躍による焦点のずれがめまいを起こす。ラディカルすぎる変化を抱えたままでも世界はあっさり進行してしまいそのこと自体がやがて「かなしみ」を持つようになる。あるいは母親が突然パンプアップ=「ムキムキ」になり動けなくなる話「ムキムキ」における奇想はあたかも「うっかり筆がすべってしまった」かのようなあっけなさ=乱暴さで作動する。あっけないからこそおかしくてかなしい。 

 

もうお菓子買ってあげないからね、とママはムキになって、もう一度ムキになって、するとムキムキになった。(「ムキムキ」) 

 

「やわらかい」筆致はべつの部分でも幼年期的な可変性に作用している。たとえば「サランラップ」はこのようにはじまる。サランラップはひと箱50メートルもある。それをぜんぶ伸ばして弟が部屋中に張り巡らせていた。なんだよ、これ、と俺はいった。蜘蛛の巣みたいじゃないか。まず兄弟の話であることがわかる。全体のトーンからいってぼんやり小学生くらいの兄弟を想像する。ところが読み進めていくとほどなく以下のような表現につきあたる。弟は働いていない。俺がお金を稼いでいる。マクドナルドでのバイト代でやりくりするのはかなりきつい。俺と弟の年金は弟の薬代に消えていく年金生活者の兄弟だったのかと虚をつかれることになる。文章から勝手に子どもだとおもっていた二人が急速に老人に姿を変える。「変身」。あるいは「子供のまま老人になっている」状態というか。年齢問わずみんながみんな少年の心のままでいるみたいでもある。いずれにせよこのやわらかくてふわふわした書きぶりが独特の宙吊り感・未決定感に大きく貢献している。兄弟ふたりできつきつの老後を送っているという生活上の「かなしみ」もまた一挙にあふれでてくる。

 

大前の作品には男女のみならず同性カップルもごくごく自然なかたちであらわれるし読むかぎり性別の完全には判別しきれない人物も何人も登場する(多くかれらは端的に「私」という可変的な存在としてあらわれる)が「性別以前」という意味ではこれもまた未成熟=未分化の形態として了解できるかもしれない。いうまでもないが小説はたとえば見た目や性別のことをかならずしも書かなくても成立する(むろん作品はそちらには流れないがここに政治的意義を読みとることも可能)。それらを捨象していきひたすら清貧に「みじかい」かたちで成就した物語の姿が掌編というかたちなのだとすればやはり「成熟」が「未成熟」により成立しているという逆説が了解されうる。まだ幼いまま「うっかり」完成してしまったとでもいうべきネオテニーとしての掌編たち。もはや「かなしい」のは内容のみならず各作品のもつ「ささやかな」フォルムそのものについてもそうだ。

 

多種多様な作品群をジャンルでくくるのはおよそ不可能だろう(これもまた「未分化」だけど)。けれどあえてジャンル風に名前をつけるとすれば、ちょうど最果タヒが帯文を書いていたこともあってか、「死んでしまう系」とでも呼ぶのがここではふさわしい気がする。希死に近似するほど強烈な「いま、ここ」への意志と刹那的な少女性をたたえていた『死んでしまう系のぼくらに』という詩集が最果の著作にはあったが大前の作品にもどこかあれに似た感情がただよっている。「推し」だとかyoutuberだとか今風の語彙をおしげもなく作品へ取りこむ当世感覚についてもそうだけれど、「死にたい」でもなく「死ぬ」でもなく、ただそのように(やがては)「死んでしまう」ことへの哀惜、その(やがては)が今この瞬間のものとして知覚されるようなほとんど倒錯にちかい切実、「死んでしまう」感覚へのまなざしがそのまま「生きていること」への目配せでもあるような自覚、などにどことなく類似の資質を感じてしまう。実際最短の掌編はほとんど詩のようにも読めるが最小単位まで落ちこんだ小説と詩とを分別しているのはたとえば大前のもつちいさくてやわらかくてかなしい「物語」そのものへの愛着というかいつくしみのようなものなのではないかという気がする。

 

 あたらしい名前がいる。あと一分で日が変わる。あした私は二十歳になる。こんなに生きてきた。世の中のことがだいたいわかってきた。狂ってる。病んでいる。あしたになったら、名前をあたらしくする。二十歳になったら、私のことを悪魔と呼ぶ。[…]私は悪魔。名前のとおりひどいことをする。みんなの話に笑ってやらない。イライラする、と私はいう。(「二十歳になったら悪魔になる」)  

 

わたしが悪魔になったのはみんなが悪い。あかいろやあおいろの信号しか見ていない。夜。昼。ともだちができなかった。それだけが原因だった。ゆめのなかの幻覚に、つれさられて殺されたいと、願うくらいにさみしくて、かなしさだけが足りなかった。(最果タヒ「きえて」一部) 

 

小説と詩のあいだに横たわる差はたとえばきっと「かなしさ」と「さみしさ」のちがいみたいになる。宝石のようにきらめく「かなしさ」がたくさんつまった作品集。

  

 

私と鰐と妹の部屋

私と鰐と妹の部屋

 

 

 

回転草

回転草

 

 

 

 

死んでしまう系のぼくらに

死んでしまう系のぼくらに

 

 

 

(記事:sh)