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なぜ人は「ゴジラ」を語りたがるのか【初代『ゴジラ』のジャンル論】

 『ゴジラ』(1954)は、一連の「ゴジラ」シリーズの初代に当たる作品。モノクロ、97分。本多猪四郎監督。本稿の目次は以下の通り。

 

 

 

1「ゴジラ」はどう「読まれたか」?

 初代「ゴジラ」という怪獣あるいは『ゴジラ』は、評論や研究の中でどのように「読まれてきたのか」。その一部を紹介していく。

 

森下達によるゴジラ評の紹介

 森下達は、「〈被爆国民〉の「悲劇」と「怨嗟」-『ゴジラ』と「原爆映画」をめぐって」(『複数の「ヒロシマ」 記憶の戦後史とメディアの力学』2012年、青弓社に所収)において、『ゴジラ』の評価をまとめている。時代を背景に「ゴジラ」あるいは『ゴジラ』の「読まれ方」がどう変化したのかについて指摘されているのだ。詳細はこの論文を参考にしていただきたいが、その一部についてここで触れておきたい。

 

①1950年代 双葉十三郎ら=ドラマ部分への批判、テーマ性についてはほとんど無視

 ゴジラ以外の人間がおりなすドラマパートがつまらないという批判。ゴジラが「核」によって生まれたことなどテーマ性については触れられていないことが多い。

 

②1980年代 「ヒロシマ」や「戦争」というイメージに結びつけられた解釈と評価

大江健三郎による批判:「放射能を大量にあびることによって怪獣となってしまった生命体」という発想自体を批判。

・肯定的な評価:ゴジラという「怪獣」自体への意味付けをしつつ、それを映画そのものへの評価とする。評論家・川本三郎は、ゴジラを「戦没戦士たちの象徴ではないか」とし、それを通して映画に評価を与えている

・上野昂志の評価:ゴジラを原爆を落とした側の「怨嗟」の凝集体とみなし、形象としてのゴジラそれ自体に積極的に評価を与えている。

 

 

 

原爆/戦争を暗示する『ゴジラ』という読み方

 初代『ゴジラ』や「ゴジラ」には、80年代の「読み方」を呼び寄せるような原爆/戦争に結び付けられがちな表現があった。そのことについてもまとめておきたい。論文に確認できた部分に関しては、論文の題名も付記しておく。

 

① ゴジラが夜にしか攻撃に来ないことが空襲のイメージを示していること

加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』(2010年、岩波書店

 田畑雅英「なぜゴジラは都市を破壊するのか」.大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター(編)『都市文化研究5号』(2005年、16-29)

 佐藤健志ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(1992年、文芸春秋

 

② ゴジラの東京襲撃コースが東京大空襲におけるB29飛行コースと類似していること

 ゴジラは南からきて、一回目の襲撃で品川、二回目の襲撃では芝浦~新橋~銀座(皇居を迂回)~国会議事堂~上野~浅草~隅田川と進撃している。

 →佐藤(1992)に言及がある。

 

③ ゴジラに襲撃された街が広島・長崎/東京の被災後を想起させること

 →公開は54年。太平洋戦争が終わってから10年も経っておらず、観客の記憶に呼びかける側面があった。

 

④ ゴジラ襲撃後の病院が野戦病院のようであり、同時に放射線検査が行われていること

  →田畑(2005)に言及がある。

 

⑤ ゴジラに追い詰められ泣き叫ぶ親子の表象「もうすぐお父さまのところにいけるのよ」

   →父親の不在は戦争における召集を想起させる。

 

 

 ①から⑤いずれも戦争や原爆が暗示されているだけであり、直接明白にこのことが語られたり、描写されたりしているわけではない(水爆実験によってゴジラが目覚めたというのが唯一『ゴジラ』の中で原爆の存在を明示した例外である)。加えて、挙げたものの中にはほかの解釈も可能なものもある(③などは、自然災害の被災風景ともいえる)。暗示にとどめたことは、『ゴジラ』が特撮ものであったことと関係があるのだろうか。

 

 

 

 

2『ゴジラ』と特撮作品

 特撮作品では戦争・原爆について表現していたのか。今回は、初代『ゴジラ特技監督円谷英二(特撮の神様とも称される)が監修を担当した特撮作品からその代表例の3つを示したい。

 

怪奇大作戦』第15話「24年目の復讐」(1968)

・戦争を終わったことを知らない兵士がアメリカ兵をおそっている。(日本兵が発見されたのは、1972年なので、予言となっているとして有名

・父親が戦死した女性が登場する。

主人公の「牧史郎」の戦争体験の回想シーン;直接的な表象

  牧の姉(防空頭巾をかぶった女の子)が映る

  →ブランコに乗る彼女に戦闘機が接近(ロングショット)

   →機銃掃射を受ける姉

・ラストシーンのセリフ:「戦争の影響から逃れることのできない人々はまだまだ大勢いるんだ」+真珠湾攻撃についての言及。

 

 

 

ウルトラマン』第4話「大爆発5秒前」(1966)

・原爆が日本海溝付近で爆発した様子が表現される。

・原爆が日本海溝付近で爆発し、そのことで本能などを変えられてしまった海底原人「ラゴン」登場。

 →ウルトラ警備隊ムラマツ隊長のセリフで原爆による「ラゴン」への影響について端的に明言されている。

「ラゴンは、放射能のため音楽好きの本能も基礎本能も狂ってしまったんだ。」

 →「ゴジラ」と異なり、原爆で狂暴化したことが明白

原子爆弾が登場し、実際に爆発直前までいってしまう。

 

 

 

怪奇大作戦』第5話「死神の子守唄」(1968)

・体内被曝者(母親が広島で被爆)で原爆症に侵された歌手「高木京子」が登場。→怪獣などに仮託せず、原爆について描写

原爆症から彼女を救うべく人体実験の為に殺人を犯していく彼女の兄のセリフ。

 

「科学者が何をした。原爆を作っただけじゃないか。」

「俺がやらなかったら一体誰が京子を治してくれた?日本の国が、か?それとも原爆をおとしたアメリカか?ふん、誰もやってくれやしない。」 

 

→ストレートに原爆についての科学者たちの罪や米国や日本の無責任さについて言及しているメッセージ性のあるセリフ。

 

 

まとめ

 このように、『ウルトラマン』『怪奇大作戦』では、戦争や原爆が視覚的にも内容的にも明示的に示されている。このため、特撮ものであったから『ゴジラ』が原爆や戦争を暗示にとどめたのではなかったといえる。また、明確なメッセージ性を持った『怪奇大作戦』などは戦争や原爆と作品を強く結びつけており、作品に多義性を生み出す「余剰」をつぶしたともいえる

 

・『ゴジラ』では戦争や原爆を明示することをせず、暗示することにとどめた。これは、特撮的な表現というわけではなかった。)

 →『ゴジラ』を原爆や戦争をテーマにしただけの映画にとどめなかった。

 →このような姿勢が「ゴジラ」を様々なものと結び付けられる一因となったといえる。

 

 

 

3『ゴジラ』とパニック映画

  次に、『ゴジラ』が生物などによる市民の混乱を描いたいわゆる「パニック映画」としての側面を持っていることに注目したい。「パニック映画」に不可欠なのは、何者かの襲撃と登場人物等の混乱シーンだ。『ゴジラ』では、映画後半でゴジラが東京を襲い、人々が逃げ惑うシーンが代表例として当てはまるだろう。ここではこのようなシーンに注目・分析していきたい。

 

襲撃と混乱のシーンの構成

 襲撃と混乱のシーンが映画の中でどう散りばめられているのか。「パニック映画」の側面を持つ作品と比較していきたい。比較する映画は、年代等に配慮し以下の通りとした。

 

〈表:ゴジラと他のパニック映画における襲撃・混乱シーンの分布と割合〉

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  『ゴジラ』の襲撃・混乱シーンは、全体に対して割合が30%ほどである、映画の中盤すぎに長い襲撃・混乱シーンがあることから割と標準的な構成であることがわかる。ただ、『ゴジラ』では、後半の25分(正式には残り27分)にこのようなシーンがないことがほかの映画と比べての特徴的である

 

ラスト25分の特殊性

 構造的な分析をすると、『ゴジラ』にはのこり25分で、襲撃・混乱シーンが消えているといった点に特徴がある。上に挙げた映画と残り三十分の違いを考えたい。

 

①『鳥』、『キングコング』、『ジョーズ』、『ゴジラの逆襲』の残り25分のシーン

 『鳥』、『キングコング』、『ジョーズ』では、その映画の魅力を端的に示しているといえるポスターで取り上げられているようなその映画の象徴的な襲撃・混乱シーンが含まれている

 例えば、『キングコング』。ポスターでは、エンパイア・ステート・ビルの頂上で飛行機と戦う「キングコング」の姿が描かれているが、ほぼ同じ構図のシーンが95分付近に存在している。

 あるいは、『鳥』。主人公が「鳥」に襲われるシーンが描かれるが、こちらも105分付近にほぼ同構図のシーンが存在する。

 

 また、『キングコング』『ジョーズ』『ゴジラの逆襲』では、これまで襲撃されるだけだった人間と「キングコング」「ジョーズ」「ゴジラ」の対決シーンが描かれ、「キングコング」や「ジョーズ」は惨殺される(『ゴジラの逆襲』の「ゴジラ」は氷の中に埋められる)。代表例は『ジョーズ』だ。「ジョーズ」は最後まで主人公と対決しその結果派手に爆死する。

 

 

②『ゴジラ』の残り25分

 『ゴジラ』では、上記のような象徴的シーンや対決のシーンはない。怪獣「ゴジラ」の表象さえ少ない。また、「ゴジラ」退治も描かれているが、一方的に「ゴジラ」を襲撃する形になっているため、「ゴジラ」は人間たちに対して反撃ができず対決シーンにはなっていない。反撃の余地を与えられなかった「ゴジラ」は恐怖の対象ではなく、憐みの対象にすらなりそうな表象である。襲撃シーンや対決シーンがないことで、最後の25分において、「ゴジラ」は人を襲ってくる恐怖の対象として表象されなかったのだ

 

 

まとめ

ゴジラ』のシーン構造はほかの生物をあつかった「パニック映画」と大差のないながら、ラストにおいてほかの「パニック映画」と一線を画していた。

→『ゴジラ』は、襲撃シーンではじまり襲撃シーンで終わるような単純な映画ではなかった。また、「ゴジラ」はラストシーンまで一貫して襲ってくる恐怖の対象として表象されたわけではない。

 →このような構造から「ゴジラ」をただの恐怖の対象として強く結びつけることがある程度避けられていたといえるだろう。

 →このようなことから「ゴジラ」を様々なものと結び付けられる一因となったといえる。

 

 

・・・

 

 『ゴジラ』は特撮作品としても、パニック映画としてもその「枠」にあてはまらない部分があった。この当てはまらなさは、見ているものに「違和感」を感じさせ、その「違和感」こそが映画『ゴジラ』や怪獣「ゴジラ」について語らせたがる側面をもたらしたのではないか。

 

(執筆:catimi)